2024年7月21日。
朝6時前。キャンプ場の空気は、もうすでに動き出していた。
テントやタープの向こうから、香ばしい匂いが流れてくる。隣のサイトでは、誰かが朝から火を起こしていた。
夏の本州なら、朝のキャンプでさえ少し汗ばむ。でも北海道の朝は違う。眠気の残る身体をそのまま外へ連れ出しても、不快さがない。空気が軽い。深く吸い込むと、肺の奥まで綺麗に洗われるようだった。
腹が鳴った。
僕も車から調理道具を引っ張り出し、簡単なホットサンドを作る。横で湯を沸かし、コーヒーを淹れる。
たったそれだけの朝食なのに、不思議なくらい満たされる。トリップ中の朝は、たぶん豪華さよりも、「今日はどんな1日になるんだろう?」というワクワク感が勝るんだろうな。
キャンプ場目の前のビーチは冬になると波が立つらしい。
けれど、この日は見事なくらいのフラットだった。昨日のウネリはきれいさっぱり消えている。
海は静かで、拍子抜けするほど何も起きそうにない。それでも、旅の朝というのは妙に諦めが悪い。少し走れば変わるかもしれない。次の岬の向こうでは割れているかもしれない。そんな期待だけで、十分に車を走らせる理由になる。
海岸沿いを北へ流しながら、いくつかポイントを見た。
最初に寄ったのは、両サイドにテトラを抱えたリバーマウス。河口の正面とテトラ脇でブレイクしそうな、いかにも冬に良い波が立ちそうな表情をしていた。

もちろん今日は波がない。それでも、ロケーションのいいポイントには、それだけで再訪の理由が生まれる。
今は眠っていても、季節が変わればきっと違う表情を見せる。そういう場所を増やしていくのも、サーフトリップの楽しさだった。
何ヶ所か回って、小樽方面の海も覗いた。
風で海面が少しざわついているだけで、やはり波は無い。
予想していたとはいえ、少し肩を落とす。けれど、そこで完全に気持ちが切り替わった。今日はもう、波を追う日じゃない。海沿いを走り、気になった場所で車を止める日だ。北海道の夏は、それだけで十分に一日楽しめる。
小樽市内の海水浴場は、日曜の昼前らしく人で賑わっていた。
塩谷と言うポイントでサーフィンも一応できるらしいが、今日の海にその気配はない。
僕はいつものように駐車場の位置やシャワー設備を見て回り、ついでにビーチ横の小さな漁港まで足を伸ばした。そういう確認は、今すぐ役に立たなくても、いつか役に立つ。旅先では、無駄に見えることほどあとで効いてくる。
そこで船を整備している一人の老人に出会った。
イガさんと名乗ったその人は、もう仕事を引退し、ときどき船をいじったり、沖へ出て釣りをしたりして過ごしているらしかった。
父より少し年上。声も動きも落ち着いていて、長い時間を海のそばで過ごしてきた人間の匂いがした。話の流れで近くのサーフィン事情を聞いていたら、イガさんの口から思いがけない一言が出た。
「船を試運転しようと思っている。よかったら一緒に繰り出さないか」
もちろん、断る理由なんてなかった。
こういうことがあるから、一人旅はやめられない。
予定していたわけでもない。狙っていたわけでもない。ただ、その場にいて、少し立ち止まり、話しかけた。それだけで、何でもない一日が非日常の一日へと変わる。
漁港を離れると、海の上の風は陸より少し冷たかった。
イガさんの操船は迷いがなく、年季というものがそのまま舵に出ていた。
観光名所の青の洞窟までは15分ほど。ツアー客を満載した観光船に遠慮しながら中へ入ると、そこだけ空気の温度が変わる。

光は青く沈み、音は少し遠くなる。鍾乳洞の中にいるみたいだった。外の真夏の世界とは別の時間が流れているような、静かな場所だった。
そのあと、少し東へ回ってオタモイ海岸へ。
海岸のほうを指さされて目を凝らすと、竜宮城みたいな気配の残骸が見えた。昭和初期に建てられたリゾート施設、龍宮閣の跡地だという。
今でさえ大変そうな場所に、当時どうやってあんなものを作ったのか。海を眺めながら、少し呆れ、少し感心した。人は昔から、とんでもない景色の前に立つと、そこで何かを始めたくなる生き物なのかもしれない。
洋上で少し釣りもした。
釣果はボウズ。
けれど、それでよかった。こういう時間に結果はあまりいらない。船を浮かべて、海の上で風を受けて、知らない土地の知らない人と黙って糸を垂らす。それだけで十分に贅沢だった。
漁港に戻ってからイガさんと記念写真を撮った。何でもなかったはずの一日が、そこで急に輪郭を持った。旅の記憶は、景色だけじゃなく、人が与えてくれる。
船を降りたら、一気に腹が減った。
北海道の先輩に教えてもらったスープカレーの店へ向かう。

野菜もシーフードもたっぷり入っていて、皿の上に夏の北海道がそのまま並んでいるみたいだった。汗をかきながら食べるのに、どこか身体が整っていく感じがある。味だけじゃなく、店の空気まで含めて、また来たいと思える店だった。
食後も海沿いを流した。
小樽市街地近くのポイントはやはりフラット。札幌から近いサーフィンのメジャーポイントでもある、銭函にも寄った。
線路脇を抜けて海へ出るあの感じは、少しだけ映画じみている。僕はなんとなく『スタンド・バイ・ミー』(※1)を思い出していた。
何かが起こりそうなわけじゃない。ただ、どこかへ向かっている感じだけが、妙に濃い。旅の途中にある道は、それだけで物語っぽい。
夕方、石狩のビーチに着いた。
だだっ広い砂浜は海水浴客で賑わっていて、波のない海ですらどこか開放的だった。秋冬になれば、ここはきっともっと違う顔をするのだろう。
ライフガードの男性に話を聞くと、主なピークや夏場の規制のことを教えてくれた。やっぱり現地で聞く情報は生きている。Googleで検索しただけの、無味乾燥な情報とはまるで違う温度感がある。
日が落ちかけて、最後にビーチ前の温泉へ入ろうとした。
ところが、まさかの臨時休業だった。こういう肩透かしも旅にはよくある。仕方なくジムのシャワーで汗を流す。
完璧じゃない日のほうが、あとで思い出に残ることがある。たぶん、期待通りにいかなかったぶんだけ、その日を自分で引き受けるからだろう。
スマホを手に取り、天気予報と波情報をチェックする。
明日はまた、日本海側で少しだけ反応がありそうだった。
狙っていたポイントを、ひとつずつ頭の中でなぞってみる。
今日が静かな一日だったぶん、そのわずかな変化に胸が少しだけ熱くなる。
気持ちを落ち着かせるように、僕はそのまま今夜のキャンプ地へと車を走らせた。
To be continued.
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